Blue Skyをもう一度


 暖かな日差しが空いっぱいに降り注ぐ昼下がり。空は一面の青色が広がり、その中を春の風が泳ぐ。
 足元にはタンポポ、レンゲ、オオイヌノフグリ……ほかにも名前も知らない花々が咲き誇っている。どれも色取りどりでなんとも春らしい。
 緩やかな丘の頂上。遥か先を見渡せば灰色の巨大は建物が所狭しと立ち並んでいて、コンクリートジャングルという表現は間違っていないなと青年は改めて思った。

「春やなぁ……」

 ひとりでに漏れた言葉がのんびりとした午後の空に消えた。
 大きなあくびをする。このままこの丘の上で昼寝でもしてしまおうか。そう思いながら青年は伸びをした。
 茶色の八分袖のシャツにカーキーのパンツ。座っている横にはお気に入りのベージュのスプリングコートが無造作に置かれている。
赤のボサボサ髪。目は燃えるような真っ赤な瞳。今年二十五歳になる青年は、緊張感のない顔のまま目の前に広がる景色を眺めていた。
 そして背中にある真っ白の翼を動かした。彼の背中には翼がある。白鳥に似た大きな翼だ。それは自分が『天使』であることの表徴。この人間界の生き物ではないという証拠だ。

「もう、春やねえ……きみこおばあちゃん」

 青年はそう言って隣に座る人物に声を掛けた。

「そうねぇ。春は暖かくて私は好きだよ」

 そう言って笑うのは腰の曲がったおばあさんだ。白髪交じりの髪を御団子にまとめ、着物姿のそのおばあさんは椅子に座るようにちょこんと青年の横にいた。『きみこ』と呼ばれたおばあさんはシワだらけの顔を更にしわしわにするように微笑み隣の青年を見る。
 穏やかな二人の会話。しかしその場所は少し変わっている。それは今いる丘は墓地であること。そして地面に座っている青年の横、きみこおばあさんの座っている場所が墓石であることだ。
 更に言えば、きみこあおばあさんの足は途中から霧になるように消えかかっており、足首は存在していない。それは人間でいう『幽霊』、天使達の呼び名で『魂』という存在であることを示していた。

「きみこおばあちゃん。もう死んで結構経つよ? そろそろ次の身体に行かない?」

 青年はもう一度大きなあくびをしながらきみこおばあさんに問いかける。

「そうねえ。ホムラちゃんのお仕事のお邪魔をしてるのは分かってるんだけどねぇ」

 そう言っておばあさんは翼の生えた青年に応える。

『ホムラ』と呼ばれた青年は「俺の仕事はええんよ。いつもこんな感じでサボってるんやから。気にせんでええよ」ときみこおばあさんに笑う。

「けどな。きみこおばあちゃんがこのままの状態でおったら、魂の暴走とか悪霊とか人間界に悪影響を及ぼす存在になりかねんのよ。魂のままでこの世にいるのは正直おススメ出来んのやけどな。おばあちゃんの為にも、早く来世の身体に入って、新たに人間に転生するのがええんやけど」
「そうねぇ……」
「おばあちゃん。何か前世で思い残したことがあるんやないの?」

 ホムラは渋るきみこおばあさんの顔を見た。

「そうねぇ……」

 きみこおばあさんはそれしか言わず、ただ真っ青な空を眺める。
『天使』の仕事は死ぬ数日前からその人間の監視を始め、身体を失った魂たちを次の身体に誘導することだ。魂は個体値があり、素直に次の身体へ転生するものもいれば、前世に未練があるためあがく者や、魂のまま暴走して悪霊になる者を収めるのが彼らの仕事だ。
 そんな魂の見届け人、天使の一人であるホムラが今回請け負ったのがこのきみこおばあさんである。きみこおばあさんの魂の見届けを受け持って、かれこれ二週間。おばあさんは今日もいつもと同じように高層ビルの佇む遥か先を眺めていた。
 きみこおばさんのように魂のままこの世にいることは生命力などに影響する為、あまりよくない。無理にでも次の身体への誘導をするのが一般的な仕事の進め方だ。
 しかしホムラはそれをしない。いくら来世に生まれ変わると前世の記憶は消えてしまうと言っても、今まで生き抜いてきた記憶に残る『心残り』を無下にしたくない。それが彼の方針だ。
 だから今日も彼はきみこおばあさんの隣で同じように空を見つめる。この人が何を思い、何を感じているのかを知りたいから。
 ホムラは数多くの『死』を見て来た。泣き崩れ生きたいと叫ぶ者。自分から命を絶ち前世と決別した者。死を覚悟しながらも懸命に生き続け、人生を全うした者。一人一人生きざまは違う。全て違う人生と運命があった。
 きみこおばあさんはすんなり死を受け入れた。それは三年間の闘病生活があったからだろう。
 胃がんだった。治療を続けながらもおばあさんはどこかで死を覚悟していた。だから家族に看取られながら息を引き取った時、素直に自分がもうあの場所に返れないと感じたのだろう。魂が身体から離れた瞬間、隣にいる天使ホムラを見て『お迎えに来たのですか?』と声を掛けて来たきみこおばあさんの心はとても穏やかそうだった。
 しかし『もう少しだけここにいてもいいですか?』と言ったあの一言。それはおばあさんがこの世界にまだ大きな心残りがあることを訴えた言葉だった。だからホムラはその言葉を聞き入れた。おばあさんの心残りを取り除いてあげたい。そう思たから。

 それから二週間。今日もおばあさんは自分の墓に座り、空を眺める。
 一体何の未練があるのだろうか。ホムラはそう思いながらきみこおばあさんを見つめた。
 身体の無い魂の状態ならどこへだって行ける。どこかに行ってみたい。見ておきたいという未練ならすぐにでも行けるだろう。しかし、それをしないということはそう未練ではないのだろう。
 誰かに会いたい、そういう類のものは少し問題だ。人間とは別の次元になってしまった魂。天使と同じ世界に零れ落ちてしまった今は、人間に感知してもらうことは難しい。霊感が強い人間や第六感が鋭いという人間でも会話したり、触れ合ったりできることはごくまれだ。そんな未練ならいくら天使であるホムラにも手を貸してあげることは難しい。

「きみこおばあちゃん。おばあちゃんは何がしたいからこの世に残ってるんやろ?」

 ホムラが何度も聞いたことをもう一度聞いている。
 しかし返ってくる言葉はいつも同じ「もう少し、もう少しここにいさせてくれるだけでいいんだよ。ごめんね。ホムラちゃんに迷惑かけてるねぇ」という言葉。
 ホムラはその言葉を聞き、何も言わずに首を振った。
 きみこおばあさんは口下手だ。何かを決めているのにそれを言葉に出来ない性格らしい。生前は頑固おばあちゃんだったと葬儀の時に参列していた孫娘達が言っているのをホムラは聞いていた。

「いいよ。おばあちゃんの気が済むまで俺は待つから」

 ホムラの言葉にきみこおばあさんは「ありがとう」と微笑む。

「もう一度……」
「ん?」

 おばあさんのポツリと言った言葉にホムラは聞き返す。

「もう一度、言ってあげたいんよ」
「言う? 何を?」

 優しく質問したホムラにおばあさんはそれ以降何も言わなかった。また同じように空を仰ぐ。

「空に何かあるんやろかぁ……」

 ホムラはヒントをくれないおばあさんと青空を交互に見つめる。
 春風が辺りを舞う。ホムラの朱色の髪がその風になびいた。
 その風が落ち着くと、おばあさんが見つめる丘の先に人影が見えて来た。

「おばあちゃん、誰か……来たで?」

 ホムラの言葉におばあさんは一瞬息を飲んだ。

「来た……」

 ホムラはおばあさんの顔を見る。おばあさんは嬉しそうに目を見開き、その後微笑んだ。
 人影はまっすぐこちらに向かって来る。きみこおばあさんのお墓にまっすぐに。
 どうやらホムラよりやや年上の男性のようだ。きちんとしたスーツに清潔感のある身なり。しっかりした足取りの男性はきみこおばあさんの墓石にたどり着くと片膝を付いた。
 天使であるホムラも、魂の存在となったきみこおばあさんの姿も男性には見えていない。辺りは誰もいない、そんな場所。男性は片膝を付いた状態で大きく深呼吸をすると涙をこらえながら墓石に言葉を掛けた。

「ただいま……」

たった一言だった。その言葉を聞いたきみこおばさんは今まで見見せた事のないほどの嬉しそうな顔をした。

「おかえり」

きみこおばあさんの言葉は男性には聞こえていない。けど、その言葉はとても大切な言葉に思えた。

「おばあっちゃん。遅くなってごめん。フライトの関係で……今日にしか帰国できなくて……。本当は葬儀にも出たかったのに」

墓石の前で男性は話し続ける。

「俺……ついにパイロットになったんだ。おばあちゃんが乗りたいって言ってた、ジャンボジェット機のだよ。試験、合格したんだ……。それを報告に来たのに……もっと早く来れば、おばあちゃんに報告できたのに」

 そう言いながら男性は涙を流し出す。堪えていた涙が男性の頬を濡らした。

「聞いてるよ。大丈夫。空を飛んでるんだね。夢、叶ったんだね」

 きみこおばあさんは孫の言葉をうんうんと優しく聞いた。

 その場で男性は自分の今の気持ちを打ち明ける。仕事のこと、生活のこと、結婚を決めている女性がいること。その話をきみこおばあさんはずっと聞き入れた。
 空が茜色になる時間、男性は墓地のある丘を離れていった。それまでおばあさんはずっと嬉しそうだった。

「ありがとうホムラちゃん」

 突然そう言われたホムラはおばあさんに首を傾げる。

「ありがとう。もう一度言えた。『おかえり』って……」と、きみこおばあさんはホムラに向かって微笑む。

「それがきみこおばあちゃんの心残りだったんか?」

 ホムラが問いかけるとおばあさんはこくんと頷いた。

「そうか、だからここにおったんやね。この場所がおばあちゃんのいる場所やもんね」

 ホムラは茜色に染まる空を眺める。

「空を見つめてたんも、お孫さんがパイロットやから……か」

 納得したホムラは何も言わなくなったおばあさんを見つめた。
 するとおばあさんの身体は徐々に薄れていく。そして小さな光の塊になるとホムラの方へと近づいて来た。
 野球ボールぐらいのサイズになった魂をホムラは両手で包み込む。

「次の人生、素敵なことが多く続きますように……」

 そう伝えると光り輝く魂はポンッという音と共に手のひらから消えていった。
 何もなくなった掌を見つめ、ホムラは微笑む。
 そしてホムラは大きな白い翼をはためかせ、その場から飛び去った。何処までも続く空の彼方に。