第一章14-3幕


 俺は瓦礫の中から体を起こす。切り傷や擦り傷だらけの自分の身体。
 刀を握り直し打ち付ける雨の中へ出ると、俺は目の前に広がる光景を見つめていた。
 土砂降りの雨。ぬかるんだ地面へさらに雨が打ち付けている。
 暗闇のあちらこちらから炎が上がり、足元はゆらゆらと照らされていた。水溜まりに炎が映りさらに明るさを増す。
 地面へうつ伏せになった白い羽根が見える。それも一人二人ではない。
 倒れた仲間を見て俺は震えていた。
「ウォンロン中佐……?」と、俺が発した声は擦れ、雨音にかき消されていく。
 その中心に見知らぬ人影が佇んでいる。赤黒い長髪に白の軍服。そして禍々しい真っ黒の悪魔の翼。
 男は雨の中、刀を握った状態でその場に立っていた。
 佇む悪魔の足元には純白の髪をした女性の背中が横になっている。悪魔が握る刀からは真っ赤な血が流れ落ちていて、足元に倒れた彼女の純白の髪を赤く染めていた。

「スズシロ……?」

 俺の言葉に黒い翼の人影はこちらに振り向く。
 男の顔にのっぺりとした黒い仮面が着いている。その仮面には返り血が付き、不気味さが増していた。目の前の不気味な仮面の男は土砂降りの雨の中、静かに佇みこちらを見ている。
 表情を隠した黒い仮面に雨の雫が滴り落ちていく。気持ちがかき乱され恐怖が襲う。

「スズシロ……スズシロ!」

 俺は何度も彼女の名を呼んだ。しかしその声は倒れた翼には届いていない。

「お前が……」

 男の握る刀に伝う血が俺の心の中を怒りに染めていく。

「お前が殺ったのか!」

 俺はそう叫び地面を蹴り上げ、目の前の人影を斬りつけた。
 黒い翼の人影は俺の斬撃を刀で受け止める。

「お前がッッ!」

 声を荒げた俺の方を向いた男は何かをブツブツと呟いた。そして俺の刀を跳ね返すと数歩下がる。
 次の瞬間、俺は彼女の元へと駆けつけ身体に触れた。雨で顔が泥だらけになった彼女は動かない。手を握ると先ほどまで温かったはずなのに、今は氷のように冷たかった。
 赤色が彼女の身体の周りを染めあげていく……。
 周りの家屋の炎で照らされたその表情はもう俺に笑うことはない。
 俺の中に張り詰めていた何かがプツンッ……と鈍い音とともに切れた。

「レイン!」

 背中から聞き覚えのある声が聞こえ、俺は後ろを振り向く。

「無事か?」

 そこには息を切らせ走ってくるヤマトの姿があった。
 ヤマトは周りの惨劇に一度足を止め息を飲む。しかし一呼吸置くと俺の前に立ち、仮面の男へと殺意を向けた。

「下がれ、俺の隊がもう来る! あいつは俺達が引き受ける」
「いや……」

 俺は小さくそう吐くと、握っていたスズシロの手を放した。
 そして目の前に転がっていた彼女の刀を握りしめ、立ち上がるとヤマトの隣に立つ。
 身体に感じたことのない何かが渦巻く。はっきりしない何かが俺の指先から頭の中までゆっくりと侵食していくのが分かった。

「レイン?」

 その行動にヤマトは何かを感じたのだろう、不安そうに俺を見つめてくる。

「ヤマト……」と、俺が名を呼ぶと彼は俺の肩に手を乗せ、必死に言葉を掛けてくる。
「レイン、下がれ! お前はよくやった」

 彼の叫び声がまるで靄がかかったように上手く聞き取れない。

「ヤマト。あいつは……俺が殺る」

 その言葉に合わせ俺の身体が徐々に凍っていくのが分かった。能力が身体から滲み出てくる。身体が軽くなる。
 視界が広い。辺りがはっきり見える。

「ヤマト、皆を頼む」

 そう伝えた俺は仮面の悪魔に向かうため地面を蹴った。
 先ほどまでとは違う。自分が自分じゃないような感覚。身体がさらに何かに侵食されていくのが分かる。

「お前がぁぁぁあああ!」

 俺はその感覚に身を委ね、歯をむき出しにし、叫びながら男へと斬り掛かった。
 仮面の男は俺の一太刀を受け止める。しかしこちらの力が勝り、男の足元が地面に埋まった。

「殺すっ!」

 俺の叫びでその場の空気が淀む。黒い何かが周りに渦を巻き、呪いの言葉が俺を更に蝕んでいった。

「……!」

 そんな俺を見た仮面の男は一瞬怯む。その隙に次の一手を放とうと、俺は右足を踏み込んだ。
 それと同時に何かが目の前を通過する。その何かを避けるように俺は仮面の悪魔から数歩離れた。
 避けた場所には白い矢が刺さっている。飛んできた方向に顔を向けると、数人の黒の翼が炎の中から現れているのが見えた。
 悪魔達は仮面の男の前に立つと、守るようにこちらに刀を構える。
 動きが機械のように不格好な悪魔達。顔は無く、身体がどろりとした土で出来ている。どうやら悪魔特有の使い魔である泥人形のようだ。
 俺はそんな加勢に刀を握り直した。

『呪いだ! 殺せ!』と悲鳴に似た叫びが俺の脳内を駆け巡る。

 呪いの言葉に支配されていた俺は「レイン!」と、名を呼ばれた。
 一瞬我に返り後ろを振り向くと、そこにはヤマトの部隊が到着していた。
 するとそれを見た仮面の男は刀を鞘へ戻し、俺に向かって静かに頭を下げゆっくりと語り掛けてくる。

「いつか、また……あなたの元に参ります」

 その声に背筋が凍る。透き通ったその男の声は昔、どこかで聞いたことのあるような不気味さが漂った声だった。

 ――人間の頃……いや、もっと昔に。どこでだ……思い出せない……。

 その不気味さに俺は思わず数歩後ずさりする。そんな俺を男は数秒見つめると、泥人形の力を借りてふわりと飛び上がり家屋の屋根へと移動した。

「逃がすか!」

 俺はそう叫ぶが、目の前に現れた泥人形に進路を阻まれてしまう。

「邪魔だ!」と、泥人形に斬り掛かる。斬り掛かったそれは太刀を受けると、その場で人型を保つことができなくなり地面へ還っていった。そのまま辺りの泥人形をなぎ払う。
 全ての泥人形を土に返し家屋を見ると、仮面の男はすでに姿を消していた。
 しかし、辺りからさらに何人もの悪魔達が姿を現し始める。その姿を見た瞬間、また呪いの言葉が脳内を巡り出した。
 意識が薄くなる。『殺せ』と頭の中の何かが叫ぶ。『呪いだ! 消せ!』と……。
 俺はその感情に身を任せるように刀を握った。

「殺す……」

 そのまま俺はどこに立っているのか、何があったのか、何人殺したのかさえわからなくなるほど戦場を駆け巡っていた。まるで何かに追い込まれるように、何かに取り憑かれたように、呪いを殺意に変え敵を斬った。
 雨が上がったと同時に俺はどこかの焼け崩れた家屋の中で完全に意識を失う。

 それが『悪魔討伐戦の英雄』などという二つ名の由来になる戦いだった。

 ◇

 次に俺が目を覚ましたのはベースキャンプに建てられた治療テントのベッドの上だった。医療道具の鳴り響く音で意識を取り戻し、ゆっくりと上半身を起こす。
 慌ただしく動く医療班を眺めていると、数人に声を掛けられる。俺はまだはっきりとしない頭で曖昧に返事をした。
 辺りを見回すと、多くの仲間達が俺と同じようにベッドで寝かされているのが見える。床や壁沿いにも座り込んで、治療を受ける者や看病する者がひしめき合っていた。隣のベッドにいる男は身体中を包帯で巻かれ、荒い呼吸を繰り返しながらうめき声を出している。その近くの床に座る者は火傷のせいで顔が赤く腫れていた。
 俺は重たい体を動かし、ベッドを降りると素足のままテントの出口へと進む。途中急な眩暈に足を取られ、輸血用の点滴が乗せられたカートにぶつかった。そんな俺を見て医療班が駆け寄ってくる。何か声を掛けられたが、頭がぼうっとしていてうまく聞き取れない。
 俺は医療班に「大丈夫」とだけ言い、おぼつかない足取りでテントから外に出た。
 外は何人もの仲間達が忙しなく動いている。俺はそんな仲間達を避けるようにベースキャンプから離れた。
 テントの間を抜け、人気の無い場所を探し彷徨う。
 すると開けた場所に出る。その場所には黒い布に包まれた塊が多く転がっていた。
 転がるそれは何だろうと脳が思考を巡らせる。しかし、空っぽの頭ではそれが何か分からない。
 佇む俺の後ろから大人二人がかりで新たな塊が運ばれてきた。
 二人は黒い塊を丁寧に運び、そっとその場に降ろす。悔やんだ顔をした彼らを見つめながら俺はその塊が何なのか空っぽの頭で考える。
 これは仲間だ……。やっとそのことに気が付いた。

 ――そうか……これは俺の仲間達か……。つい先ほどまで笑い合い、ともに生きていた……。

 一歩一歩、魂が抜け落ちた、ただの塊となった仲間達を見渡しながらゆっくり歩く。
 しかし数歩進むと俺の身体は悲鳴を上げ始め、すぐに膝を付いてしまった。その場で動くことができず、崩れるように座り込んでしまう。
 ふと頭上を見上げる。空は明るんできていて、雨雲は綺麗に消えていた。
 朝日が昇る……空が青い。そんな当たり前の光景が、今の俺の目には何故か新鮮に見えた。
 仲間達の遥か先、丘の上に天界軍のテントが何棟も見える。その天界軍のテントは朝日に照らされ、新しい一日の始まりを喜んでいるように見えた。
 しかし丘に向かって続く塊の列は光で明るくなることはなく、寂し気に影を作り出している。

「……レイン」

 後ろから名を呼ばれた。聞いたことのある優しさに包まれた柔らかい声。しかし俺はその声に振り返ることが出来なかった。

「閣下」と、俺は朝日の昇る丘を見つめたままぽつりと話す。

 ジュラス閣下……みんな逝ってしまいました」

 俺の言葉にジュラス元帥は「ああ」とだけ答える。

「また死にました。死ぬってあんなに辛いことなのに……」

 言葉が淡々と口からこぼれ落ちる。
 空っぽの頭の中に、忘れていた感情が溢れた。

「軍人だからいつかは戦死する……それは分かっていました。いつかこうなることも。それが今回の作戦かもしれないって分かっていたはずなのに」

 俺は両手を胸の前で強く握りしめ、溢れ出る気持ちを押さえようとした。しかし心の中を埋め尽くす感情が止められない。気が付くと俺は震えながら涙を流していた。

「言えなかったんです。好きだよって……」
「好き」その言葉を口にした瞬間、俺の中で彼女への想いが止められなくなる。
「俺もお前のこと大切だって……好きだよって。何で言わなかったのかな。あんなに想ってたのに。言葉にできなかった。大切な人だったのに……こうなるかもしれないって分かってた。言わなきゃいけなかったのに……」

 涙は一度流れると止めることができず、溢れ出す。
 胸元で握る両手が震え、抑えることが出来ない。

「好きだよ、スズシロ。俺もお前のこと……好きだよ」

 言葉が詰まる。涙で視界が悪くなり、目の前の景色が歪んで見えた。しかし俺は目の前に広がる青空と、ゆっくりと昇る朝日から目を背けることが出来ない。
 ジュラス元帥はそんな俺に声を掛けることも、慰めることも、共に泣くこともしなかった。けれど俺の消えそうな気持ちを全て受け止めるように、ただ静かに聞いてくれていた。
 どれくらいの時間をその場で過ごしただろう。溢れる涙が枯れる頃、ジュラス元帥はただ空を見つめ続ける俺の前に片膝を付き、一言「行こう」と声を掛けてきた。
 俺と目が合うと、閣下は切なそうに微笑み手を差し出してくれる。
 天界軍からの酷い仕打ちがあったかもしれない。仲間や部下を失い泣きたかったかもしれない。この人の中にもたくさんの葛藤があったはずだ。それでも元帥は何も言わず、ただ俺に微笑んでくれていた。
 涙の枯れ果てた俺はその優しい顔に自然と笑みを返す。そして元帥の差し出してくれた手を握るとゆっくりと立ち上がった。


 中界軍七百五十名中、無事に帰還したのはわずか六十五名。
 天界軍は千名を超える大隊での参加だったが死者、負傷者ともにゼロという結果で終わる。
 これが三年前の悪魔討伐戦。地下界との休戦後最大の戦である。