第一章4幕


 澄みわたる青空に木々の緑。爽やかな風が吹く中、レインとエレクシアは無言で芝生の上に立っていた。
 箱庭という名からてっきり小さい庭だと思っていたが、神の城中枢にある森は相当の大きさのようで、ここが城の中だとは思えなかった。
『神が住まう土地』、そんな空気が感じられ外の音はまったく聞こえない。小鳥のさえずりだけが遠くで響いている。

「武器はなし、能力が使えるなら使ってもよい。それで構わないな?」

 エレクシアは大きく深呼吸すると、前髪をかき上げながら口を開いた。
 その声にレインは頷く。
 女性相手にとも思ったが、立ち振る舞いや物腰から武術に長けた人物だと感じ取ったレインは、遠慮なく身体を構える。
 人間の頃に身につけた様々な武術と、中界軍で培った体術を合わせたレインの構えは独特だ。左足を後ろに下げ、右腕をしならせるように突き出す。
 エレクシアは小さく「ほう」と漏らし、ゆっくりと右手を前に出すように構えると、レインへクイッと合図をした。
「仕掛けてこい」という合図に反応したレインは、構えの為に下げた左足をしならせ思いきり踏み込んだ。その空間に芝がフワリと浮かぶ。
 レインは軽い足音で駆け出し、エレクシアに近付くと左足を横顔めがけて蹴り上げる。その蹴り上げた左足はエレクシアの右腕に塞がれ、あっさりと跳ね返された。レインは跳ね返された足で反動を付け、そのまま右足で同じように蹴りを入れ直す。

「なるほど」

 エレクシアはその言葉と同時に、右足で攻撃してきているレインへと拳を向ける。
 レインは拳の軌道をかわすように身体をしならせながらバク転をし、エレクシアとの距離をとった。そして体勢を立て直すと、先ほどと同じように左足を踏み込む。それと同時に身体の中の力を右腕に込め、エレクシアの正面へ突き立て放つ。エレクシアはその瞬間を見逃さず腕でガードし、レインの攻撃を受け止めた。
 急に音を立てエレクシアの腕が氷に包まれていく。

「なかなかの威力」

 エレクシアの感想にレインは一瞬笑みを見せた。

「しかしもう少し精度を上げるべきだな」

 その言葉とともにエレクシアの腕は赤々と燃え上がり、氷は一瞬で雫となって溶けていった。

「くそっ!」

 レインの声に今度はエレクシアが笑みを見せる。

「体術はさすが、だがっ!」

 言葉に合わせ炎が上がると、エレクシアの両腕はその炎を帯びたままレインに襲いかかってきた。右左に炎の拳を受けたレインはガードを取れずに一瞬ひるむ。体を反らしながらブリッジするように両手を地面に着けると、両足を思いきり蹴り上げエレクシアの顎に向けて右足で攻撃した。
 エレクシアはその蹴りをさらりと交わしたが、レインは身体を反転させ続け、先ほどと同様に左足をねじ込む。レインの左足はエレクシアの腕をかすめ、空を切った。レインの足から発した能力はエレクシアの腕をさらに凍らせる。
 倒立した状態になったレインは身体をしならせ、後ろへバク転するように動きはじめる。しかしエレクシアはそれを許さず、凍った腕のままレインに攻撃を仕掛けてきた。
 レインはその攻撃をかわそうと身体を捻るが、無理が生じてしまい左腕がガクリと崩れる。そして体勢が傾くとドサリと地面に倒れてしまった。
 すぐさま体勢を立て直し、攻撃に戻ろうと視線をエレクシアに向ける。その瞬間、レインの瞳が不気味に光り出し、身体全体へ殺気が流れていく。
 その瞳を直接受けたエレクシアは「ふふっ」と、思わず笑い出してしまう。彼女の息遣いの変化にレインの殺気も抜けていった。それと同時に力も抜け、大の字に倒れてしまう。

「あたっ」

 頭を地面にぶつけたレインの素直な声に、初めは小さかったエレクシアの笑い方が、次第に男勝りの大きなものへと変わる。

「ハッハハハ!」

 エレクシアは少しの時間笑うと「すまない」と、レインを覗き込んで謝った。

「なかなか面白かったのでつい」
「いえ」
「そして先ほどの生意気な発言も謝罪する。見込みのある人材のようだな、レイン」

 その笑顔に、レインは息を切らしながらも微笑んで見せた。エレクシアがこちらに向かって手を差し出す。その手を掴んでレインは上半身を起こした。
 その先にパラソルの下に座るシラとヤマトの姿が見える。

「レイン、この先姫様の護衛の任をともにして行ってはくれないか?」

 エレクシアの言葉にレインは身を引き締め「はい」とだけ答える。エレクシアはその力強い瞳にどこか嬉しそうだった。

「そのまま少し休むといい。夕刻にはダスパル元帥への謁見がある。その前に自室を案内しておこう」

 エレクシアはそう言うと後ろを振り返り、パラソルの方へ歩いて行った。それを見ていたシラは立ち上がり、彼女の元へ駆け寄って行く。二人はそのまま軽く言葉を交わし、シラはエレクシアの横を抜けるとレインの元へ駆け寄って来た。
 レインはその光景を見ながらシラの髪が今の青空と同じ色だなと考えていた。

「レイン!」

 気を取られていたレインはシラの声に思考を戻す。
「怪我はありませんか?」とシラが横に座り込む。着ているドレスの裾がふわりと膨らみ萎んでいった。

「シラ、ドレスが汚れてしまいます」

 その言葉を気にすることなくシラはレインの身体を見まわす。

「どこか痛いところは?」
「ありませんよ」
「本当に?」
「はい」

 そんな受け答えにシラは胸を撫で下ろした。

「もう、エレアは無理をさせすぎです」
「いえ、エレクシアさんは十分手加減してくださっていました。自分が悪かったんです。最後の方で少しムキになってしまった」
「そうなのですか?」

 シラの言葉に頷く。

「俺の殺気に気がついて、ああやって場を収めてくださったのでしょう。これ以上やることもないと」
「そう……」

 レインはゆっくりと立ち上がりシラの方へ手を差し出す。

「こんな所に座り込ませてすみません」

 シラは首を振りレインの手を取ると、彼に引っ張られ立ち上がった。

「見ていてハラハラしました。親衛軍の軍事行事などでしかあのようなものを見たことがないので」
「確かに間近で見ていると少し怖いかもしれませんね」
「怪我がなくてよかった」

 シラはレインの顔を見てそう微笑んだ。その笑顔にレインは徐々に顔を赤らめていく。
 先ほどの演習によるものか、それとも彼女の笑顔によるものか、心臓がいつもより速く動いていた。

「これぐらい大丈夫ですよ」

 レインはそんな自分の心の中を見透かされないように、微笑みを崩さず彼女の手を放す。

「あ!」

 彼女の突然の声に心臓がまた少し高鳴った。

「レイン、敬語! 敬語になってますよ!」

 シラが頬を膨らませてそう話した。

「あ……で、でもシラも敬語で」
「私はこの言葉遣いが通常なんです! レインもいつも通りの言葉遣いにしてください!」
「や……」

 レインの言葉を遮るようにシラの頬がさらに膨らむ。

「参ったなあ……」

 レインは溜息をついて頭を掻いた。

「分かった。努力するから」
「はい!」

 その言葉にシラは膨らんだ頬を戻し笑顔で返事をした。

 ◇

 エレクシアに案内された自室は最神の応接部屋とは違う棟で、箱庭の大きさをさらに実感した。シラの自室である本館よりは小さいが、広々とした内装だ。
 夕刻近くになり部屋の暗さが気になったレインは部屋の隅にあるランタンに能力で炎を灯す。
 この世界には電気などは存在しない。それは昔から『人間の文明は全て神や天使より劣っている為に発展したもの。その技術を使うことは異端』と天使達が忌み嫌っているからである。人間などという大きな差別が古き時代から世界の中枢深くに根付いて、それは今も色褪せていない。その為、中界のような発展した電気技術や化学物質などもこの世界には誕生していないのだ。
 レインは壁に掛けてある黒の軍服を手に取って見つめた。慣れ親しんだ生地の肌触りを感じた後、それを羽織って三年前のようにボタンを一つ一つ丁寧に止めていく。
 大きく息を吸った。

 ――またこれに袖を通すことになろうとは……。

 何が英雄なのだろう。何が特化した能力だ、優れた武術使いだ。多くの命を奪って、大切な命を守れなかった自分は英雄でもなんでもない。
『黒』は漆黒の中から転生してきた証。中界軍の誇りの色。そう最初に教わったあの頃。あの頃の喜び、悲しみ、苦しみ……。捨てたはずのものが黒の誇りとともに蘇ってくる。
 レインは左手の人差し指を動かしながらランタンの炎を消すと、外へと繋がる扉を開けた。
 開けた扉の前には沈みゆく大きな太陽がオレンジ色に輝いている。庭園の木々達が夕日の光で赤く染まり綺麗だ。
 空の色はこんなにも赤かっただろうか。自分の心が薄暗くなっているからそう見えるのだろうか……。
 幻想的な風景に一歩足を踏み出した時に「おお!」と隣から声が聞こえてきた。

「似合う似合う!」

 そう言われレインは声の主であるヤマトを睨みつける。
 レインの部屋の入り口で待ち構えていた彼はこちらの姿を見ながらどこか嬉しそうだ。

「当たり前だろ、デザインは昔のままなんだし」
「いや、しかしだな。俺にもいろいろ思うところはあるんだよ」
「何だよそれ……」
「いやぁ」

 ヤマトは何かを話そうとしたが、続きを話すのを止め口を閉じる。その先をなんとなく察しレインもそれ以上は追及しなかった。

「階級は元の少尉で名乗れだとさ。今回の極秘任務の間だけだが一応は軍人として行動してくれ」
「分かってる」
「悪いな」
「お前がどうこうできた話ではなかったことはもう分かってるよ」

 そう言ってレインはヤマトに向かって敬礼をして見せた。

「レイン少尉これより一時的に中界軍へ復帰し、任務を遂行いたします」

 ヤマトは何も言わず、きちんとした姿勢で敬礼を返した。その顔はいつもの冷やかしの顔ではなく、過去のことを思い出しての苦い顔だった。
 レインは敬礼を終えヤマトに笑う。

「で? そろそろ行かないとだろ?」
「ああ」

 ヤマトもそんなレインに笑い掛ける。

「俺もダスパル元帥に謁見するのは初めてなんだ」
「フィール元帥も一緒にいるんだろ?」
「そうみたいだな」

 歩きながら話していると、本館が姿を見せた。その建物の前に二人を待つサンガが見える。木々を眺めていた彼は二人が近付いて来るのを見つけてこちらに向かって叫んだ。

「お二人とも! お時間ですよ!」

 その言葉に二人は少し歩くスピードを上げ、謁見の場へと急いだ。