第一章6幕


 母が亡くなったのは三年前。それまで私と母は二人でこの箱庭に住んでいた。
 私は母を心から尊敬していた。母の最神としての立ち振る舞い、女性としての身のこなし、全てが私の目標だった。
 だから私は小さな頃から母の背中を追うように勉学に励み、数々の習いごとをこなした。
 そんな母が床に臥せたのは四年前。難病に侵された母はそれでも政をおこなった。
 元老院の政策は保守的だ。それは『平和的、戦のない世界』という母が強く望んだ在り方に近いものでもあった。その頃から元老院の薦める政策を取り入れることが増えた。
 そんなある日……母はこの世を去った。
 私は母の元で泣いた。大好きだった母。私のたった一人の理解者……。
 そんな私の前に軍の者達が現れた。
 母の亡骸の前で彼らは私を『最神』と呼んだ。
 私は涙も枯れ果てる前に母の跡を継いだ。
 母との思い出に浸る時間もないまま、私はこの世界の『神』になった。

「一刻を争う事態。その作戦に実行許可を」

 そう軍幹部達は私に頭を下げる。
 元老院が到着する前に、その決断をするのは間違っていた。今ではそう思う。
 でもあの時の私は、母に成長している姿を見て欲しい。母の跡を継ぐ私の背中を見て欲しい。そう思った。
 そして軍幹部達の持ち込んで来た作戦の実行許可を私はその場で決断した。
『ガナイド地区悪魔討伐戦』を。


  ◇

 シラは少し朝靄のかかった空を見上げ、スカイブルーの髪を撫でながら深呼吸をする。ふと昨日の記憶を思い出し「楽しかったなぁ」と、呟く自分は浮き足立っているのだろうか。
「せっかくなので夕食を皆でいかがですか? ダスパル元帥への謁見後に二人をお連れします」なんてこっそり耳打ちしてきたサンガの提案。それに賛成したシラは、二人をもてなす為に、エレクシアと箱庭の客間をパーティー会場へと変身させた。
 小さい頃から最神の一族として貴族らしく、と教育されてきたシラはより良い振る舞い方を必死に勉強してきた。それから母が亡くなってからの三年間、シラは必死に最神として振舞っている。
 そんな自分に一つ楽しみが増えただけで、こんなにも心が跳ねた。
 夕食だってそうだ。食事をするメンバーが二人増えた。それだけでどうしてこんなにも楽しいのだろうか。今までの貴族や軍人と取る晩餐の息苦しさはなんだったのだろう。いつも食べている味付けも何もかもが美味しかった。
 ヤマトは料理をペロリと平らげて大食いだと笑ったし、レインはテーブルマナーがぎこちなく魚料理に手こずっていた。
 箱庭が大きな森のような庭園の真ん中にあることをこれほど嬉しいと思ったことはない。二人が隠れる必要のない、自分だけの空間にこれほどまでに感謝したことは今までなかっただろう。
 今日は確か正午から軍議があったはず。その会議までに資料に目を通し、溜まっている各街の案件にサインをしておかないと……。
 シラは頭の中で今日の予定を立てながら髪を撫で自室の扉を開けて外へ出た。
 早朝の空気が身体を潤す。
 ロングスカートに薄手の羽織を着たラフな格好で箱庭の本館へと続く廊下を歩いた。
 シラは長く続く赤い手すりを撫でながら、しばしの散歩を楽しむ。
 最神という大きな肩書きから解放される数少ない時間を目一杯感じた。

「なんの音だろう……」

 少し歩くと何かが空気を斬るような音が聞こえてくる。風の音ではない、何かリズムを刻んでいる。いつもの朝とは違う音に少々不安はあったが、この箱庭に入れる者は自分の知っている天使やメイド以外ありえない。
 シラは庭に響いている音が気になり、手すりを伝ってその音の聞こえる方へと歩いて行った。
 建物の角から音のする方を覗くと、そこには若草色の髪をポニーテールにし、竹刀を振る青年の姿が見えた。
 風を斬る音に合わせて竹刀が振り下ろされ、若草色の短い尻尾が揺れる。金色の目線は凛と前を向き、腕まくりした二の腕はしなやかに引き締まっていた。軍を抜けたという印象はその姿には微塵も感じられない。
 昨日のエレクシアとの模擬戦でもそうだったが、彼の動きはまるで音楽に合わせダンスを舞うよう。武術や戦闘技術を全く知らないはずなのに、シラは竹刀を振る青年の姿を綺麗だと思った。
 彼にはどんな過去があったのだろう。どうして人間から天使に転生して軍人になり、そして軍から去ったのだろう。
 竹刀を同じリズムで振り続ける青年を眺める。すると彼は動きを止め、首に回していたタオルで頬の汗を拭きながら後ろを振り返った。
 地面を見つめ、フゥーッと長めに呼吸をする彼の姿は、自分と同じ歳とは思えないくらい大人びて見える。
 すると彼の視線がこちらに向き、シラと目が合った。

「あっ……」
「え?」

 その瞬間、彼のタオルを持った手が固まり、顔が硬直する。

「ひ、姫?」
「あ、ええっと……おはようございます。レイン」

 シラは少し気まずく目を泳がせたが、潔く挨拶をした。

「おはようございます」

 レインは竹刀を腰へ持ち直し挨拶をする。そんな彼にシラは面白くなってフフッと笑った。

「いつからいらした、あ、い、いたんだよ……シラ」
「ごめんなさい。あまりにも真剣に稽古をしてるので声を掛けづらくて」

 シラは微笑みそう言った。レインは恥ずかしそうに頬を掻く。

「見ても面白いものじゃないだろ?」
「いえ、面白いです。私には」
「そ、そうか……」

 レインはそんな反応に戸惑いながら廊下の方に歩み寄り、庭へと降りられるよう造られた階段に腰掛けた。

「朝早いんだな」と、彼は置いてあった水筒に口をつけ飲み物を飲む。
「いつもこの時間に散歩してるんです。気分転換に良いので」

 シラはそう言ってレインの隣に近付くと、フワリとロングスカートを揺らしながら座った。その姿に彼は一瞬立ち上がろうとしたが、それも失礼になると思ったのだろう、そのまま腰をかけ直す
「レインも早いですね。いつもこうやって稽古を?」
「まぁ、そうだな。習慣になってるから」
「それは軍の時からの?」
「いや、人間の頃からの……かな」

 その少し曇った声にシラは言葉を止める。

「身体を動かさないといろいろ悩んでしまうからさ、こうして毎日動かしてる」
「いろいろですか?」
「うん。過去のこととか、これからのこととか」
「そうですか……」

 シラが少しトーンを落とした声で話すとレインが突然慌てる。

「いや、これからってのはシラの護衛に不安があるとかそういうことじゃなくて……。軍人に戻った自分はこれからどうするかとかで」
「え?」
「あー、だから……その、今回の任務に不安がないって言ったら嘘になるけど、この任務が終わったら自分はどうしようか考えてしまって。だから」

 そんな彼にシラは微笑む。その微笑みでレインは「はぁ」と、息を吐いた。

「そうですよね。突然、軍に戻れなんて言われたらいろいろ悩みますよね」
「んーまぁ……そうかな」
「すみません」
「シラが謝ることじゃない!」

 彼がこちらを見ながらはっきりそう言った。金色の瞳がキラリと光る。そしてまた息を吐くとレインはもう一口飲み物を口にした。

「俺はずっと逃げてたから、今回の任務はいいきっかけだったのかもしれないなってさ」
「逃げてた?」
「そう、現実からというか、過去の自分からというか……」
「……」

 レインはそう言って立ち上がり竹刀を握った。

「ごめん。説明下手で……」
「いえ、こちらこそ。ごめんなさい」
「いや、だからシラが謝ることないよ」と、レインが優しく微笑む。
「俺がきちんとケリを付けなきゃいけないことだったんだ。だからありがとう。きっかけとしてここに呼んでくれて」

 その微笑みの奥の深い部分をシラは読み解くことが出来なかった。
 目の前の青年の心の奥には、何か大きなものがある。しかしその何かは自分には想像もできないものなのだろう。そんな彼の話をもっと聞ければ……そう思った。

「あの!」

 シラは声を掛けたが一瞬ためらう。しかしゆっくり声に出した。

「明日、またこうして稽古を見てもいいですか?」
「え? いや……俺は構わないけど。見てても何も面白く……」
 そう言いかけたレインは頬をかきながら「覗き見しない……ならいいかな」と笑う。

 覗き見なんて表現に恥ずかしくなり、頬を赤らめながらシラは「はい」と返事をした。