レインは大きく深呼吸をしながら背中の翼を羽ばたかせた。
　今朝は肌寒い。
　空がすでに赤く色付いている。今日は少し部屋を出るのが遅くなってしまった。
　それは部屋の入り口に紙切れが挟まっていたからだ。
　紙切れには『来週の式典の準備で当分箱庭に来れない。しっかりジュノヴィス坊ちゃんからシラを守ること！』と記されていた。
　ヤマトの字だとはっきり分かる。
　問題はそこではない。

　『PS.去年と同じように俺とお前の模擬戦をプログラムに入れている。伝え忘れたすまん。今回はシラも謁見するらしい。うまくやれよ』
　そんな書き込みを思い出し、レインは溜息を付いた。
　まさかとは思ったが今年も来たか……。
　毎年行われる中界の式典だが、大規模に行われ始めたのはここ数年の話で、去年は親衛軍を招いての大きなものだった。
　休戦から立ち上げた『中界軍の技術発表会』と言ってもいいその式典は一種のイベントだ。
　今年はレインとヤマトが熾天使の騎士に就任するという発表も控えている。
　もっと大きな盛り上がり……いや、馬鹿騒ぎになることは間違いないだろう。

「気が重い……」

　レインはそう言って伸ばした翼をくにゃっと下した。
　人前に出るのが苦手な自分が、何万人の見物客の前で晒される……何と恐怖な事か。
　しかしそれを気にしているばかりではいけない。
　レインは首を振って竹刀を両手で握ると勢いよく降り始めた。
　いつもより遅い時間から始めてしまった。そろそろメイド達がシラの部屋に朝食を持って行く為、この庭を通るだろう。竹刀を振り回す姿を見せたらまた怖がられてしまう。
　レインは少しペースを上げて一通りの型を行う。
　朝日は眩しくレインや周りの木々達を照らし出していく。
　天界巫女の話。世界の理。初代最神と人間王、初代魔王。血族。魂の循環。世界を変える力。
　何もかもがレインの身体を渦巻くように、そして取り込むように襲ってくる。
　レインはそれを斬り付けるように踊った。
　身体を軽く、リズムを付けて、無駄のないように……。
　呼吸が早くなる。不安な気持ちが消えていく。
　速く……速く……。
　そして全ての型を終え、ふわりと動きを止めた。ここに来た頃より少し伸びた髪が動きに合わせて揺れ、そして止まる。

「ふぅ……」

　呼吸を整えながら渡り廊下に向かった。
　そこには笑顔でレインを見つめたアクアブルーの瞳が光る。

「わ！　シラ！！」

　見学者の存在にやっと気が付き、レインは驚きながら数歩下がった。

「おはようございます、レイン」
「お、おはよう。いつからいたんだ？」
「ついさっきから」

　シラは昨日ジュノヴィスには見せなかった笑顔をレインに向けて嬉しそうに挨拶する。

「そ、そうか」
「ごめんなさい。あまりにも真剣に稽古していたので声を掛けづらくて」
「いや、いい。俺も気が付かなくてごめん」

　そう言ってシラのいる廊下の淵に座り一呼吸置く。

「昨日はごめんなさい」

　レインが座るのと同時にシラが謝りだす。

「ジュノヴィスのことです。失礼ばかりして」
「シラが謝ることじゃないだろ？」

　レインは上を見上げるようにシラを見て答えた。

「けど……彼は」

　シラが言葉に詰まる。

「気にするなよ。ジュノヴィスに限ったことじゃない」

　立ったまま眉を歪めたシラに座るように促しながらレインは言う。
　シラはそれに従いストンと腰を下ろした。ロングスカートがふわりと舞う。

「天界天使は転生天使を迫害してるのはどこでもあることだ。あまり気にしてたらキリがないぞ？」
「でも……」
「巫女の話で俺達が何故迫害されてきたのかルーツも分かったしな」
「天界で起こした人間王の出来事のことですか？」
「そう、『死』を経験してももう一度人生をやり直せる。それって初代最神が世界の理を歪めたからだろ？　自分の血族ではなく人間王の血族にそれを行った。完璧なヒイキだよ」
「でも、現代にそれを知っている者はほとんどいません。なのに……今でもその迫害は続いている」
「いじめの発端なんて誰も覚えてなくたって続くもんさ」
「レインは！！」

　シラが少し声を上げ叫んだ。

「レインはどうしてそんなに簡単に物事を受け止められるんですか！？　私は悔しい！！　二人は私にとって大切な天使！　天界や中界なんて境界線はありません！」

　シラの悲痛の顔を見てレインは驚く。

「なのに皆どうしてこうも簡単に人を蔑むのですか？　そしてあなたは何故その行いを許せるのですか！？」
「ゆ、許すとか許せないとか……そんな簡単な話じゃないだろ？」

　レインがたじろぎながらシラをなだめるように言った。

「俺一人がどうこうしても何も始まらないし……昔から起こってることを簡単には覆せないさ」
「……そう、ですよね」

　シラがそんなレインの言葉にシュンと身体を縮めてボソリと吐く。

「ごめんなさい」
「いやいや、謝るなよ」
「はい」

　最近自分の世界を広げているシラは、周りの者達の二人の扱いを見てずっと心の中でこのことを抱えていたのだろう。
　それが昨日のジュノヴィスの登場によって加速した。
　レインはそんなシラに向かって笑う。

「シラが何とかするんだろ？　その為に城の中を見て回ったり、来週の中界軍の式典に出席したりするんだろ？」
「はい」
「俺はそれで十分だよ」

　シラがレインの顔を見つめる。

「シラのその気持ちで十分」

　レインの言葉にシラの顔が少し和らぐ。

「私はレインの力になっていますか？」
「うん。なってる」
「私の今している行動は、皆さんの気持ちを変える何かになっていますか？」
「うん。少なくとも俺は君の行動は正しいと思う」
「そう……ですか」

　シラがそう言ってレインに微笑んだ。彼女の頑張りは自分が一番分かっている。だから彼女の苦痛も背負ってやりたい。
　レインはシラのその気持ちを心にゆっくりと受けとめた。

「来週の式典に出て、一ヶ月後には成人の儀だろ？　まずはそこから、な？」
「はい！」

　シラの笑顔にレインも微笑む。

「そうだ！　式典が終わってから本格的に儀式の唄の練習が行われるんです」
「唄って、前歌ってた……子守歌みたいな？」
「そうです。古代から続く血族の唄」

　シラが立ち上がると廊下を降り庭に足を付ける。

「聴きたいな、その唄」

　レインの言葉に、足元の草を見つめていたシラがくるりと振り返り笑った。

「ここで、ですか？」
「いや、今じゃなくてもいいけど……綺麗な歌声だったから」

　レインは少し焦るように話したが、その言葉にシラが笑いながら翼を広げる。

「少しだけなら、ご期待に添えます」
「え？」
「歌わせてください！　レインに聴いて欲しいから」

　シラがそう言って笑う。レインはそんなシラの笑顔に、止めようとした言葉を飲み込んだ。

「うん。じゃあ聞かせてもらうかな」

　そしてレインはその場に座ったまま彼女を見つめる。

「まだ下手なので笑わないでくださいね」

　そう言って呼吸を整えるとシラは手を合わせた。
　一瞬空気が止まり彼女の唄が始まる。
　風に乗ってその唄声が響き、朝日に溶け込んでいく。
　言葉は分からない、なのに悲しい……。
　何故だろう心に染み込む。こんなに引き込まれるメロディーが今まであっただろうか。
　シラと初めて会った時に似ている。
　なんだか懐かしいような、寂しいような、そして待ちわびた再会のような……心に何か新しい感情が湧いてくる。

　心が急に絞られるような感覚に落とされていく。
　後ろに見える太陽にシラのスカイブルーの髪が光る。白い翼が空に溶け込むように揺れた。
　何処かで見たことのある……同じ色の髪をした女性。
　これは……自分の記憶？　いや違う……。これは自分の産まれる前の話。魂の記憶だ。
　自分は誰だ？　彼女は誰だ？
　唄が聞こえる。あの時もこんな朝だった。あの時？　あの時とはいつだ？
　魂が叫ぶ『会いたい』と……。

　歌い終わったシラがレインの異変に気が付き急いで駆け寄る。

「レイン？　レイン！？」

　シラが叫ぶ声が遠くに聞こえる。近くにいるはずなのに。
　レインは遠くを見るようにシラを見つめ彼女の頬に手を添えた。
　包帯のしていない右目がおぼろげに揺れる。
　そして魂の向こう側にいる誰かに呟いた。

「愛している……」と。