第二章ノ壱12幕


「レイン!? レイン!!」

 シラの声に「はっ」と意識が戻る。
 レインは何度か瞬きをして意識をさらにはっきりさせた。
 すると目の前にシラの顔が見え、自分の両手は彼女の頬を包み込むように伸ばしているではないか!!

「うわっ!! シラ、ごめん!!」

 レインは急な状況に慌てふためき、急いでシラの頬から手を放す。

 「レイン! 良かった……元に戻った」

 シラがほっと胸をなでおろし息を吐いく。

「ごめん何だか急に……」

 そう言った瞬間ポタポタとレインの膝の上に何か冷たいものが落ちて行く。

「レイン!?」と、またシラが慌てて叫ぶ。

 どうやらその冷たいものはレイン本人のから流れているようだ。

「え?」

 自分の頬を触ってみる。

「な、涙?」

 レインは包帯で隠れている眼球のない場所をそっと触る。包帯は涙で濡れて湿っていた。そこからさらに頬に伝って涙は流れ、やがて膝に落ちているようだ。

「どうしたんです? 何か……」

 シラが不安そうにレインを見つめる。

「いや、俺は大丈夫」と、レインはシラに優しく言った。
「これは俺の涙じゃない」
「どういう意味ですか……?」
「これは……俺の魂が泣いてるんだ」

 胸が締め付ける感情。頭で考えていることではない。心の中心で何かが唄に反応したのだ。
 一度死を経験して魂の存在になった自分には分かる。これは身体や頭で感じているものではないと。
 心配するシラの不安を取り除こうとレインは笑う。

「大丈夫だから」
「でも……」

 そう言ってシラがそっとレインの包帯へ手を伸ばし触る。

「包帯が濡れてしまってほどけそう。取り換えないと」

 シラがそい言ってレインの頬に手を添えた瞬間。

「シラ! メイドに聞いたら朝はいつもこの庭を散歩していると聞いたのでね! 一緒にどうだいと誘おうと……」

 急に背中から声を掛けられ、シラはレインに頬を添えたまま振り返った。

「ジュノヴィス?」

 グレーの軍服とアッシュグレーの頭。昨日と変わらない声のトーンで突然登場したジュノヴィスはその場にピタリと立ち止まる。
 丁度ジュノヴィスが登場したその場所からではレインがシラに隠れて見えなかったのだろう。
 シラが後ろを振り向いたことによって、レインの右目とジュノヴィスの黒い瞳がぶつかった。

「え?」

 ジュノヴィスから見れば二人が重なって見えているようだ。
 そんな光景を目の当たりにした彼は口から唸り声のような声を吐いた。

「な、ななななななななななな!!!!!」

 そして突然大きな声を出してズカズカと二人の方へと歩いてくる。

「貴様は何をしているんだ!!!!!」

 叫ぶとシラの両肩を抱きかかえ、レインから引きはがした。そして大きな声で怒鳴りつける。

「貴様は最神である僕の妻に何てことを!!」
「ジュノヴィス! 違うんです!」

 ジュノヴィスの言葉を遮るようにシラが叫んだが、ジュノヴィスは聞く耳を持たない。

「このっ!! 人間風情の下等生物が!!」

 そう言って目の前のレインの頬を殴り、甲高く叫ぶ。

「……ッ」

 レインはその拳を受け、渡り廊下から地面にドサリと倒れた。

「ジュノヴィス!! やめて!! レイン!!」

 シラが叫ぶ。
 レインはそのままその場にうずくまり、動かない。

「貴様は何をしているのか分かっているのか!? 僕のシラにそこまで近づいて!!」
「違う! ジュノヴィス!」
「シラ! 何故こいつを庇うのだい!? おかしいよ!! こいつは転生天使! 僕達純潔とは違う!」
「違いません! 何も!」
「違うさ!!!!」

 ジュノヴィスはそう言って、目の前に横たわったレインのわき腹に向かって思いっきり蹴りを入れた。
 レインはその蹴りをその態勢のまま受けてしまう。

「ゴフッ!」と唸り声を上げレインは蹲る。
「やめて!!」

 シラはジュノヴィスの腕をつかんで叫んだ。

「誰か! 誰か来て!!」

 この騒ぎにガシャガシャと廊下の向こうから食器の音をさせながらメイドが現れる。

「きゃっ!!」

 レインに蹴りを入れるジュノヴィスを目撃したメイドは持っていた朝食の御前を手から離し、その場でガシャン! と大きく音を立て床に落とした。
 その音がさらに朝の箱庭に響く。

「姫様!!!」

 その場にバタバタと走って来たのはエレクシアだった。食器が散乱しているメイドの横に駆けつけ叫ぶ。目の前の光景にエレクシアは一度怯んだ。
 その間に三度目の蹴りをレインは受ける。
 しかしレインは声一つ上げない。それは先ほどの唄の影響なのだろうか。反撃に出ようとしなかった。

「レイン!!!」

 エレクシアが叫びメイドの横を抜けるとシラの方へ走り出す。
 それと同時に、シラは四度目の蹴りの為に上げたジュノヴィスの足からレインを庇おうと彼の上へ覆いかぶさる。
 シラの行動に蹴り上げた足を止め、ジュノヴィスは驚いた顔をした。
 そこにさらにエレクシアがシラを守るように前へ立ちふさがる。
 ジュノヴィスはそんな光景に数歩後ずさりした。

「シラ……どうしてしまったのだい? その転生天使を庇うのかい?」

 ボソボソとジュノヴィスが目を泳がせながら話す。

「あ、分かった。犬や猫を拾った感覚なんだね」

 急にジュノヴィスの顔がパッと明るくなる。

「そうか、そうか。でもそんな野良犬はきちんと躾ないといけないよ?」

 そう言ってジュノヴィスは腰に挿している刀をゆっくりと引き抜き始めた。

「ジュノヴィス中尉!! 駄目です! ここは箱庭!」
「それがどうしたと言うんだい? これは僕とシラの問題だ。エレアどけろ……」
「どきません!」

「どけッ! 僕が遠征に出た途端にシラは変なものを拾ったみたいだ。きちんとここで躾けておくよ。この下等生物に誰が上の立場で、誰のものに手を出したのかを」
「レインはあなたと同じ熾天使の騎士です!」
「僕は認めない!! 下等生物に騎士階級など!!」

 二人が叫び合う。

「エレア、君は僕に楯突くのかい? 君の家系と僕の家系の関係を壊す覚悟が君にあると言うのかい!?」
「……」

 エレクシアはその言葉に唇を噛み締める。

そして「私は姫様の護衛人です。姫様のお気持ちを守るのも私の務め!」そう叫ぶ。

 ジュノヴィスはそのエレクシアの叫びを聞くと大きな溜息を付いた。

「いやはや。この箱庭はどうなってしまったんだい? 何かに毒されてしまったのか? それもこれもそこの下等生物のせいかな?」

 そう言って少しだけ見えていた刀をまたゆっくりと鞘から抜いていく。朝の陽ざしに刃が光る。
 その瞬間……シラに守られていたレインの頭が動き、右目がギロリとジュノヴィスに向かって動いた。

「……」

 無言で見つめるその金色の瞳から殺意が漏れてくる。
 朝日に照らされたその瞳がジュノヴィスの刀とぶつかり更に不気味に光った。

「……ッ!!」

 そのレインの瞳に睨まれて、ジュノヴィスは一気に血の気を引いたような顔をする。『転生天使』という未知の生物の恐怖が身体を襲っているのだろう。

「貴様!!」

 しかしジュノヴィスは歯を食いしばり、刀の残りを鞘から抜こうを動いた。

「はい! ここまでっ」

 突然気の抜けた声がその場を制する。

「!!!」

 急に現れ、抜きかけたジュノヴィスの刀の鞘を抑える人物にその場にいた全員が呆気にとられた。

「ジュノヴィス中尉、もうそこらへんにしておこう」と、そう続けて話す人物……。
「フィール元帥」

 シラがその人物の名前を呼んだ。

「はい。おはようございます最神様」

 明るい口調でジュノヴィスの背後に立つその男。
 薄紫に金色の瞳。ダークグリーンの軍服。そして胸元には親衛軍の元帥バッチが光る。まさしく親衛軍元帥フィールだった。

「近くを通りかかったら、メイドの様子がおかしいと来てみれば……」

 そう言ってフィール元帥はニッコリと笑った。

「フィール元帥」

 その突然の介入にジュノヴィスはさらに強く歯を食いしばる。

「貴方も私を侮辱しに来たのですか?」
「まさか! 止めに来たんだよ」
「余計はお世話を」

 元帥に対しての態度とは思えないジュノヴィスの発言に皆が背筋を凍らせる。

「貴方も僕の血族の元にいる、しがない田舎者貴族だということをお忘れか? 僕を止められる者はここにはいない」
「いいや、ここは天界の神の城。軍が納める場だ。君の思想は通用しないよ」

 フィールはそう言って刀の柄をぐっと握るとジュノヴィスの力を抑え込み、刀を鞘へ仕舞うように促す。

「……」

 ジュノヴィスはフィール元帥をきつく睨むと、仕方なくその刀を元に戻した。

「しかしこの箱庭に転生天使などという下等生物を野放しにしているのは納得いきません。これは叱るべき問題かと」

 ジュノヴィスは攻撃姿勢を辞め、フィール元帥に食って掛かるように話しだす。

「しかもあの者達は僕と同じ熾天使などに……」
「ん~けどこれは軍議で決まったことだからね~」
「こんな奴にシラを守れるとは思いませんがね」
「それは……」

 そう言ってフィールは一瞬レインを見る。レインの右目とフィールの視線がバチッと合う。

「では! 先ほどの続きをするのを許可しよう!」

 レインの視線からすぐに目を離したフィールはパンッ! と手を合わせてジュノヴィスに言った。

「フィール閣下!!」

 突然の申し立てにその場に佇んでいたエレクシアが叫ぶ。
 フィール元帥はエレクシアに向かって右手を出しその言葉を止める。

「しかしきちんとした場を設けよう」
「きちんとした?」

 ジュノヴィスはフィール元帥の言葉を繰り返す。

「一週間後。中界軍の定例式典が行われる。そこで模擬戦を二人にしてもらおう。そうすれば刀も能力も使って戦える。彼が最神様を守れる力を持っているかどうか。分かるだろう?」

 フィールの提案にジュノヴィスは一旦悩んだが少し間を開けて頷いた。

「分かりました。そうしましょう。もし僕が彼に勝ったら転生天使の熾天使の騎士階級就任は無かったことにするよう手配してくれないでしょうか?」
「ん~僕一人の言葉では直結は出来ないだろうけど、そうなるように取り計らってあげるよ」
「それで問題ないです。こやつをシラの元から消せれば……」

 そうフィールに言うと、レインの横に座り込んでいたシラの元に歩き出す。

「先ほどは大きな声で叫んでしまってすまなかったねシラ」

 そう話しながらシラに手を差し出すが、シラはジュノヴィスを強く睨むだけだった。

「どうしたんだい? 本当に君は変わってしまった」

 ジュノヴィスは悲しそうな顔をしてシラに問掛ける。

「でも一週間後、君は間違っていたと僕に言うだろう。下等生物より高貴な血族である僕こそが君にふさわしいのだと。箱庭は純潔の者達で構成されるべきだと……」

 そう言葉を捨てるようにジュノヴィスは身体を翻し、箱庭を後にした。