第二章ノ壱13幕


 レインは大きく腫れた右頬を更に膨らませ、不満そうな顔を目の前の男に見せた。

 白髪交じりのボサボサ頭、着古した黒の軍服に身を包んだその男は、そんなレインの顔を見ても動じることなく涼しげな顔をして笑う。

 

「お久しぶりです」

 

 レインは不満そうな顔をしたまま目の前の男に向かって敬礼をした。

 ここはお馴染みになった城の隅にある倉庫。中界軍の密会場と化したこの部屋にいるのは、レインと目の前の男ジュラス元帥だけだ。

 窓から差し込む日差しで照らされ、倉庫の中は比較的明るい。

 埃がキラキラと光る中で、レインは敬礼をしながら自分の上官であるジュラス元帥の言葉を待った。

 しかし目の前の上官から出たの「よっ! 大丈夫か?」だけ。

 そんな軽い言葉にレインは拍子抜けし、敬礼を辞めた。

 何かを期待していたわけではない。しかし、なんだか気が抜けてしまった。

 

「フィール元帥から今朝のことは粗方聞いた。とんだ災難だったな」

 

 古びた椅子に腰かけジュラス元帥はレインに話しかける。

 

「申し訳ありません」

「謝るな、お前が悪いわけでもないだろ?」

「はい……」と、レインは目線を落とす。

「よくそこで反撃しなかったな。偉かった」

 

 ジュラス元帥がレインに手招きをしながら優しい声で話す。

 それに応えるようにレインは彼の座る椅子まで歩いた。するとジュラス元帥はいつものように頭をぐしゃぐしゃと無造作に撫で始める。

 いつもはそこで「止めて下さい!」と嫌がるのだが、今日は素直に頭を撫で終わるのを待つ。

 

「閣下……」

「ん?」

「すみません」

 

 レインは頭を撫でられながら、もう一度謝る。

 そんなレインへ分かっている、というかのように元帥は頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「まあ何とかするさ」

「はい……」

 

 中界軍と天界軍が友好的な関係になりつつある今、ジュノヴィス中尉という重要人物と模擬戦を執り行うということが、軍事や政界に今後どれほどの影響力があるのかをレインもよく分かっている。

 友好的に、というには難しい相手であったのは間違いないが、敵対する関係になってしまってはいけないことぐらい分かっていたはずなのに……。

 レインは神妙な面持ちでグシャグシャになった髪を整える。

 

「しかしその場にフィール元帥が上手い具合に現れたのは失敗だったな。いや、お前にとってはフィール元帥が来なかったら、さらに怪我を負ってたかも知れなかったんだな。すまない」

「いえ、自分のことはお気になさらないで下さい」

 ジュラス元帥はレインの気遣う言葉に微笑む。そして小さくうなり声を上げて悩み始めた。

「フィール元帥に一歩、先を越された感があるな」

「……」

「俺の予定としては、お前とヤマトを式典の演目で戦わせて、『二人は熾天使の騎士になりました!』って発表するつもりだったんだ。模擬戦でお前達を戦わせれば、親衛軍の奴らに中界軍の武術値や能力値がどれほど高いのかを見せつけられると踏んでたんだが……」

 

 中途半端に剃っている髭を触りながら元帥は話しを続ける。

 

「天界軍の熾天使の騎士、『将来の最神の婿』ジュノヴィスと、中界軍熾天使の騎士、『悪魔討伐戦の英雄』レインか……」

 

 その言葉にレインはただの模擬戦ではないこの戦いの意味を噛みしめた。

 分かっているのだ。決して勝利してはいけない戦いだと。

 もし万が一ジュノヴィスに勝ってしまえば、中界軍やジュラス元帥の努力で今まで積み重ねてきた政界での地位が一気に崩れるだろう。

 ここまで積み上げてきた中界軍の立場が危うくなってしまう。それだけは避けなければいけない。

 しかしこの戦いに勝たなければ彼女の側にいることは愚か、もう二度とシラと会うことは許されなくなるだろう。

 そんなことを考えているのが顔に出てしまっているのだろう。ジュラス元帥は大きくガハハと笑った。

 

「そんな心配そうな顔をするな! 大丈夫だって」

「しかし……」

「なんも気負う事ない。遅かれ早かれこういう事が起こるとは予想していた」

 

 ジュラス元帥はそう言ってレインに笑顔を向ける。

 

「それは、軍事的にこちらが追い込まれていた……という事ですか?」

「いんや~」

 

 ジュラス元帥は右手をひらひらと振りながら答えた。

 

「馬鹿らしい話さ。実はな……」

 

 急に声色を変える上官に、レインは身構えゴクリと唾を飲んだ。

 

「俺の名前ってさ『ジュラス』じゃん」

「はい」

「で、相手の名前は『ジュノヴィス』だろ?」

「…………はい」

「似てるじゃん?」

 

 そこでレインは話しの趣旨が分からなくなり、眉間にしわを寄せた。そんな顔をしているにも関わらず、ジュラス元帥は淡々と話しを続ける。

 

「で、あいつに始めて会った時に俺が先に名乗ったのね。そしたら高貴な血筋に伝わる名前にニュアンスが似てる! って怒鳴られてな」

「…………はい?」と、さらにレインは苦い顔をしてみせる。

「何でもジュノヴィスって名前は、古き時代に活躍したあいつ等のご先祖様の名前なんだと。その名前とニュアンスが近いから人間の分際でって酷い罵声を浴びせられてな。それからあの坊ちゃん、ますます中界軍を目の敵にしててさ~。こういう事が起こるのは時間の問題だったんだよな~」

 

 ジュラス元帥の話を最後まで聞き終わったレインは、眉間にしわを寄せたまま固まる。

 

「レイン? どうした?」

 

 ジュラス元帥がそんなレインを不思議そうに見つめた。

 

「閣下、一言いいですか?」

「うん、いいよ」

「馬鹿らしい……」

 

 レインのその言葉に元帥はガハハと声を出して笑った。

 

「ほんとそれだよ! だが、彼らにとっては大切な事なんだろう。分かってやれとまではいかないが、知っておいてやれ」

 

 ひとしきり笑うと元帥はレインにそう伝える。

 

「それに、レインもジュノヴィス坊ちゃんに鬱憤、溜まってるんだろ?」

「そんな事ありません」

 ジュラス元帥は「またまた~」と肩をすくめた。

「本当です。彼ばかりを責めるつもりはありません。彼には彼なりの考えがありますし、今回も俺がきちんとしていなかったからこんな誤解を生み、事を大きくしてしまった。それに彼も同じ熾天使の騎士。俺がどうこう言える立場ではないですから」

 

 そんなレインに向かってジュラス元帥は大きく溜め息をつき、足を組み直した。

 

「お前は少し謙虚過ぎる。もう少し前に出てこい。噛みつくぐらいにな」

「それ、ヤマトにも言われました」

「ほう、ヤマトは何て?」

「お前はもっと欲深く生きろ、だそうです」

「ヤマトらしいな、しかし的を得ている」

 

 ジュラス元帥はレインの顔を真剣な面持ちで見つめる。

 

「レイン。もっと自分を利用しろ」

「自分を、ですか?」

「そうだ、自分自身を利用するんだ。お前の立ち位置を、お前の地位を、お前の生きてきた人生を『レイン』という人物そのものを全て利用しろ。お前自身をお前が使いこなすんだ。そうすればお前はもっと上に行ける。前に進める」

「自分自身……」

 

 上官の言葉を繰り返すように、レインは言葉をこぼす。

 

「そうだ。あとはお前次第ってことだがな」

 

 ジュラス元帥は椅子から立ち上がると、もう一度レインの頭を軽く撫でる。

 

「ま、上手くやれ。お前なら大丈夫さ」

 

 そう言ってジュラス元帥はレインの頭から手を放すと、振り返ることなく部屋を後にする。

 レインはまだ少し痛む右頬を撫でながら、その背中を見送った。