第二章ノ壱3幕





 ああ、この気持ちをどう表現しようか。
 私は今か今かと心待ちにしている。
 ああ、愛しいお方。
 まだ見ぬ私の『絶対的主君』
 本当の貴方様はどんなお顔で私を見てくださるのだろうか。
 どんな声で私にお声を掛けてくださるのだろうか。
 早くお会いしたい。
 いつもいつも貴方様にお会いする日を夢見ていたのだから。
 しかし、まだなのだ。焦ってはいけない。
 そう少し、もう少し……。
 目の前にいる貴方様に、真の貴方様に早く会いたい。
 ああ、この気持ちどうしたらよいのか。
 私は貴方様にお会いするために生き、そして死んでいくのだから。
 貴方様に全てを捧げるために生きているのだから。
 早く、早く。
 ああ、この気持ち。
 ああ、この気持ち。
 知られてはいけない。
 悟られてはいけない。
 あのお方のお考えに忠実に。
 そう、忠実に。
 あのお方に貴方様を会わせるのが私の役目。
 その為に生きているのだから。
 その為にここまで来たのだから。
 あのお方に忠誠を誓い。
 貴方様に命を捧げる。そのために私はここで息をしているのだから。
 そう、だから……。
 私のこの身、全て貴方様へ……。


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 曇り空の下、レインは久しぶりに七海の病室へ顔を出しに来ていた。外は少し肌寒く七海の病室も窓が閉まっている。部屋の中ではベッドに座って、看護師と話をしているショートヘアーの女の子が見えていた。
 レインは窓の外で翼を動かし体勢を整えると、その窓ガラスにコンコンとノックする。
 本来の人間にはその音は聞こえるはずがない。看護師もその音が全く聞こえていないようだ。しかし七海はその音に気付き、嬉しそうに窓の方を見てきた。そして看護師に窓を開けるように促す。

「でも、七海ちゃん。寒いよ? いいの?」

 看護師は七海にそう言いながら窓を開ける。

「ありがとうございます。少しの間だけ」

 七海は嬉しそうに笑う。

「そう? じゃあまた来るから寒くなったら閉めるんだよ?」
「はい」

 看護師は七海ににっこりと笑ながら廊下の方へと向かい入り口の戸をゆっくりと閉めた。
 すると七海は窓の方を見つめる。

「お帰りお兄ちゃん」

 そして見えるはずのないレインを笑って迎え入れてくれた。レインは窓の桟に座ってその笑顔を眺め答える。

「ただいま」

 その言葉は七海には届いていない。七海にとってもレインの存在は不可思議なものだろう。霊感が強い体質でも、ここまではっきりと天使を感知する人間は少ない。それだけ自分たちの家系は強い能力数値なのかもしれない。母は全くそんな体質では無いので、幼い頃に死んだ父の血筋なのだろう。
 もしかしたら父も天使に転生してるのかもしれない、なんて考えた事もあるが大抵の転生天使は人間の頃の過去を隠したがる。その為、父を探すことは早い段階から諦めていた。

「お兄ちゃん、私ねもうすぐお薬の量が減るんだって」

 七海がそう言ってベッドの隣に置いてある丸椅子に向かって話し出す。どうやらそこにいると思っているようだ。

「そしたらね、先生が中庭の公園までならお散歩行ってもいいって」

 七海の声に顔が緩む。

「そうか……」
「それにね、それにね」

 他の人に一人で話していると噂されてはいけないと、七海は小声で話を続ける。
 その話にレインは「うん」「うん」と相槌を打った。
 これから天界での生活になる。シラに頼んで定期的に会いには来るつもりだが、今までより頻度は格段に減るだろう。そう思うとレインの心は小さく縮んだ。

「でね、でね」

 レインは桟から降り部屋に入ると、嬉しそうに話す七海に近づき頬に手を添えた。七海の頬は石のように冷たかった。レインが近くに顔を持って来ても七海はずっと椅子の方を見つめて話し続けている。

「七海、俺やりたいことが見つかったんだ。だから……」

 ひんやりとしたその頬を愛おしく撫でる。そしてレインは七海の話し掛ける椅子に座って微笑んだ。
 少しばかり時が過ぎる。心が軽くなる。自分の一番心を許せる存在。その空気を身体全体で感じた。

 コンコン。軽い音で入り口にノックがされる。

「はい」

 話を止め七海はそのノックに声を掛けた。

「七海ちゃん、誰かお客さん?」

 先ほどとは別の看護師がゆっくりと戸を開けると七海に言った。

「あれ?」

 部屋の中は七海しかおらず、窓が開いているだけ。

「本を朗読してました。すみません」

 七海はそう言ってその看護師に笑った。

「そう」

 看護師は不思議そうにその部屋の中を見渡すが、確かに誰もいないし七海は本を持っている。

「お母さんが受付に来たみたい。もうすぐ面会に来るよ」と看護師はそう要件を伝えてきた。

 その言葉に七海の顔からスッと笑顔が消える。

「そう、ですか……」
「えっと、お母さんが受付まで来たら七海ちゃんに伝えたらよかったんだよね?」
「はい、ありがとうございます」

 七海は確認してくる看護師に、笑顔を作ってにこやかに挨拶する。看護師はそれを安心したように見るとゆっくりと扉を閉めていった。

「……」

 扉の閉まる音と共に部屋が静まり返る。レインはゆっくりと立ち上がると窓へと近づいた。

「さ、お兄ちゃん早く出ないとお母さん来ちゃうよ?」

 そう言って七海は椅子に向かって残念そうに笑う。
 七海はレインと母親の関係をよく知っている。だから最近は母親が来る前に報告して欲しいと看護師にお願いしてくれるようになった。
 いつもなら母親が来ると分かると七海の前髪に風を送り「帰る」と合図をし部屋を去る。しかし今日は「帰る」という合図があるはずのタイミングで何も起こらない。

 七海は首を傾げ周りを見渡した。

「お兄ちゃん?」

 もう居なくなったのか? と不安な顔をする。
 しかしレインはまだ窓の前に立っていた。ゆっくりと呼吸する。そして正面に見える廊下との入り口を睨んだ。
 コンコン。
 扉から音が響く。七海は心配そうに窓の方を見ると「はい」と返事をした。

 「ななみ~」

 そう言ってパーマを当てたロングヘアーにパンツスーツの女性が顔を出す。

「体調は大丈夫かな?」

 ヘラヘラと笑いながらその女性は中へ入ってくる。

「うん」

 七海は少し硬く笑顔を見せた。

「今日はね、リンゴを買って来たんだ~」

 そう言いながらその女性は病室を歩き、レインがさっきまで座っていた丸椅子に座った。

「あっ」

 七海の小さな言葉に女性は「?」と首を傾げる。

「ううん。何でもない」

 七海は不安そうな顔を一瞬見せたが、首を振り笑う。
 レインはそんな『母親』と呼ぶべき女性の背中を眺めた。子供の頃、あんなに追い求めていた背中。
 武術を身に着け始めたのもこの人がいたからで、今七海がこうやって治療が出来ているのもこの人がいるからだ。
 しかしレインはこの女性を『母親』ともう思っていない。過去が蘇ってくる。レインはその背中を見つめ拳を握った。
 逃げてはいけない。決めたのだ。自分はもう逃げることを辞めたのだから。過去からも、今の気持ちからも逃げないと……。だからこの人からも逃げないと決めたのだ。
 レインはぐっと背筋を伸ばし、深呼吸を二度するとその女性の背中に話掛けた。

「人間の頃はいろいろあった。正直あんたを憎んでる。けど恨んではいない」

 女性は背中を向けて七海に話し掛けている。その言葉は本当に七海を思っての言葉なのか? 自分自身への言葉なのか……。自分しか見えていない彼女からの言葉は、果たしてどこまでは真実なのか。今はもう分かろうとも思わなくなってしまった。

「俺は天界に行きます。今までみたいにずっと七海のそばに居てやれない。だから……」

 レインはそう言ってゆっくりと頭を下げた。

「七海の事……よろしくお願いします」

 自分なりのケジメだった。そして過去の記憶と母親との決別でもあった。
 レインはゆっくりと顔を上げると、いつも通り七海の前髪をふわりと浮かす。

「お兄ちゃん?」
「え!?」

 とっさに出た七海の言葉に母親の顔が一気に青ざめる。そして七海の見つめる窓に急いで振り返った。
 しかしその窓には何もおらず、少しだけ冷たい風が入っているだけだった。