クリスマスまであと3日。
正太郎はいつもと変わらない時間に起き、身支度をすると家の階段を下りて行く。正太郎はどうしていいか分からない今の現状に一睡も出来ずにいた。頭痛がする。吐き気も……。
目の下にクマを作り、正太郎は浅い呼吸で家の玄関の扉を開けた。
「正太郎?」
その玄関の音に母親が、キッチンから駆け足で声を掛けてくる。
「朝ご飯は?」
「いらない」
「でも、ちゃんと食べないと……昨日も夕飯食べてないでしょ?」
「いらないから」
「どうしたのその顔!? 目が真っ赤よ!? 昨日はちゃんと寝たの?」
「五月蠅い!!!!!」
母親の問い掛けに正太郎は日頃出さない大きな声で叫んだ。母親はそんな正太郎に驚きの顔を見せる。
「しょう……たろう?」
そんな母親の声に正太郎は急に我に返る。一度もこんな言葉……母親に言ったことなかった自分が声を荒げて叫んでしまった。母親の顔を見ると青い顔をしてこちらを見ている。
「あ……」
正太郎は一瞬母親に声を掛けようとしたが、どう言えばいいのか分からなくなり、そのまま逃げるように家を出た。
1日何もないまま過ごす。授業に出て、塾に通う。
クラスの空気。街のネオン。行き交う人。何も変わらない。なのに正太郎の見つめるそれは今までとは違うものに見えた。
父に逆らえない自分。母親に掛けたことない罵声。追いかけられない夢……。残り僅かな生きている時間……。何もかも怖かった。
なのに目の前を通り過ぎる世界は自分の気持ちなど知る事無く進む。話し掛けてくる友人も、心配して来た担任教師も、塾の講師も。何もかもが怖い。怖い……。
何もかも? 僕は一体何が怖いんだ?
ネオンが光る街路樹を抜け自分の家へ着く。正太郎は朝出たのと同じように自転車を定位置に置くと深い溜息を付いた。
1日何も身に入らないかった正太郎は、ぼうっとした目で自転車を眺める。
すると、昨日こっそり隠した紙袋を見つけた。彼女の為にホムラと1日がかりで探したクリスマスプレゼントだ。その紙袋を持つと正太郎は玄関の扉をゆっくりと開けた。
ーーーーーガチャリ。
静かに開け中へ入る。するとリビングの方で母親の声が聞こえて来た。
「はい。朝はきちんと出ました。けど……昨日あまり寝ていないようで顔が真っ青で。はい。はい。いえ……」
母親の声しか聞こえない。どうやら電話をしているようだ。電話越しの相手は父親だろう。いつもああやって自分のことを報告しているんだ。どうせ昨日も学校か塾から正太郎が出席していない、とでも連絡が来たのを父に報告したんだろう。
正太郎は靴を脱ぎ自分の部屋に向かう。
「あ、帰って来たみたいです。はい。はい」
そう言って母親は電話を切ったようだ。母親が急いで玄関に向かって来る足音が聞こえる。正太郎はそんな母親に会いたくないので急ぎ足で階段を上がった。
「正太郎! 帰ったの?」
「……」
「ご飯出来てるから着替えたら食べに降りて……」
「いらない」
正太郎はそれだけ声を出す。
「けど、昨日も今朝も食べてないでしょ? お昼はちゃんと食べた?」
「……」
「お父さんがね……正太郎はちゃんと学校行ったかって心配して電話をね……」
「大丈夫だよ。僕はちゃんと学校に行ったし、塾にも行った。お父さんとお母さんが求める理想の息子でしょ?」
正太郎は母親を階段の上から見下ろすように振り向く。その正太郎の落ち込んだ顔を母親は不安そうに見つめた。正太郎はそれだけ言うとまた階段を上がりだし、勢いよく部屋の扉を閉めた。
辛い……。涙が零れる。
「つらいよ……」
正太郎は真っ暗の部屋で声を挙げた。そしてそのままベッドに倒れ込む。どうしたらいいのか分からない。何も……分からない。あと3日しかないのに。
家族にもホムラにも、何て話せばいいか分からない。夢って何?生きるってなんなの? 自分の生きていた意味って何? 父親の夢を叶える為? その為に勉強して生きていたの?
正太郎はそのままその答えも見つけることなく、何時間もベッドに横たわり涙を流す。もうどれぐらい時間が経ったのだろう。波のように押し寄せる死に対する恐怖と、父親の言葉。
突然真っ暗闇の中で正太郎のポケットが微かに動く。正太郎はその振動にポケットの中をさぐった。そして取り出したのは携帯。その携帯の画面には見覚えのある名前が表示されている。
『調子はどう?』
可愛い顔文字と共にその文面が見える。正太郎は暗闇の中でその画面をタッチした。
『大丈夫だよ』
そう返すとすぐに返事が送られて来た。
『嘘、付いてるね』
彼女の文面に正太郎は一瞬息を飲む。
『こんな時間に送り返せるなんておかしい』
彼女の文面を見て画面の一番上を見ると、もう明け方の5時。すでに日をまたいでこんなにも経過していたのに初めて気が付く。
『どうしたの?』
彼女から続けて文面が送らて来る。
『何もないよ』
『いいや、あるね。正太郎はいつも困った時はそう言う』
彼女には何でもお見通しのようだ。
『オーディションのこと、お父さんにバレた』
『あちゃ~。それで?』
『だから行けそうにない』
『いいの?』
すぐに返ってきた彼女のその一文に正太郎は深く息を吐いた。
そして『仕方ないよ』と、打ち込む。正太郎の言葉に数秒彼女からの返信が止まる。そして……。
『逃げるの?』と帰って来た。
絵文字も無いその文。その文面に正太郎はベッドから起き上がり、座った。
『応募は私が勝手にしたことだけど、オーディション受ける事から逃げたら夢からも逃げることになるよ?』
「……」
『今までみたいに夢から逃げるの?』
「……」
『お父さんときちんと話し合った? いつもみたいに逃げてるんでしょ?』
「……」
『逃げたらダメだよ』
正太郎は次々送られてくる文面に目を奪われる。
そうか……彼女には何もかもお見通しだったんだ。夢から逃げて父の言いなりになっていることも、そんな父と自分は正直に向き合っていないことも。
だからこのタイミグで彼女は自分に秘密でオーディションへ応募したんだ。本当にこの彼女には頭が上がらない。そう思い、正太郎はその画面を見つめ微笑んだ。そしてゆっくりと携帯画面をタッチする。
『ありがとう』
その言葉を打ち込む。そして少し明るい窓を見る。カーテンから抜けた光で少しだけ部屋が明るくなっていくのがわかる。その薄暗い光で、部屋の真ん中に置いたままになっている彼女へのクリスマスプレゼントが目に入ってきた。
『オーディション頑張るから。そのあと渡したいものがあるんだ』
正太郎が続けてそう打つと、彼女は『楽しみにしてる』と絵文字付きで送って来た。
その文章を見て正太郎はベッドから立ち上がる。そして壁に横に立てかけてあったギターを背負うとゆっくりと部屋から出た。
忍び足で階段を降り、玄関を抜ける。すると家のガレージには父の車があった。その横を通り過ぎ、自転車に跨ると正太郎は思いっきりペダルを踏んだ。