息を切らせながら正太郎はいつもの河川敷に到着した。河川の先に見える山から薄っすらと日が昇り始める。変わらない光景。薄暗い空が赤く染まる。暖かい赤に。
自転車を置いて、いつもの定位置へと歩くと、そこから微かに歌声が聞こえて来た。河川敷の先を見る。そこには赤髪に真っ白な翼の生えた背中が、芝生に座って鼻歌を歌っていた。
微かに聞こえるその歌声……。近づくとそれは自分の作詞作曲した、オーディションで歌うオリジナル曲だと言うのに気が付く。
「なかなかこうへんから、ほんまに諦めるんかと思ったわ」
鼻歌を止め、朝日を眺めながらホムラがそう話す。
「この歌な、俺結構気に入ってるんやで? なかなかいい曲や」
「……」
「これならオーディション受かって、夢叶えられる……そんで君は胸張って死ねるって思ってる」
その言葉に正太郎はその場に立ち止まる。ホムラは後ろを振り向き、悲しそうな顔をした正太郎の見て微笑んだ。
「昔話、してもええか?」
「昔話?」
正太郎はそう聞き返す。ホムラは微笑んだまま前を向いた。
「昔な、そこまで裕福じゃない家庭に1人の少年がおった。貧乏な家庭やってけど、満足して暮らしてた。
けど、ある日父親が別の女作って家を出て行った。俺達の財産ぜーんぶ持ってな。それから優しかった母親はドンドン壊れていった。母親も同じようにいろんな男連れ込んでは、いつもそいつらと揉めるようになった。
そんな中で少年は暮らした。自分の気持ちなんて無かった。けど、絵を描くのは別やった。そいつさ、昔から絵を描くのが好きでな。紙とペンがあったらそれでよかったんや。
絵は自分の気持ちを素直に表現できる、唯一の手段やった。だから、少年はいつしか『絵描きになろう』って決意するんや。そんな家庭環境の中、猛勉強して高校に進学した。
勉強しながら、毎日バイトして母親の生活費と大学行くための貯蓄もした。毎日夢に向かって我武者羅に生きてた……。
それで奨学金制度の助けを得て、受験も合格。春から美大に行けることになった。夢に近づけるって思ってた……。
けど、そんなある日。父親が帰って来た。金を寄越せって。俺の貯めた貯蓄を根こそぎ奪いに来た。俺は抵抗した。小さいアパートの中で殴り合いの喧嘩やった。
その時に俺は父親に押し倒されて……打ち所が悪かった。倒れた俺を見て、親父は慌てて金だけ持って逃げてったよ。
最悪やった。あの時すぐに助けを呼んでくれとったら、俺は助かったかもしれん。けどそれは無かった。あの時、俺は死ぬ運命だったんや。
悔しかった……。俺、なんのために生きてたんやって……。悔しくて……悔しくて……。親父を恨んだ。お袋を恨んだ。世界を恨んだ……。
死んですぐに新しい身体に入って、今までのこと全部忘れて、また1から別の人間として生まれかわるなんて納得できんかった。だから俺は魂のまま、この世に残ることにした」
ホムラがそこで一瞬言葉を詰まらせる。そして話し出した。
「人間でいう悪霊ってやつに俺はなった。最悪の展開。悪霊は天使の世界にも、人間の世界にも悪影響を及ぼす存在やからってさ、天使の特殊部隊に魂ごと消されそうになった。でもその時に天使達から話を聞いたんや。
俺も転生して天使として生きていけるかもしれない『能力者』の存在だって。その能力者ってのは……人間の頃に何かに特化した力を持っている人のことなんやって。
霊感が強かったり、運動神経が良かったり……俺の場合は絵の才能が特化してたんやってさ。生きてる間にきちんと母親に「絵を描きたい」って話してたら。
父親がまだ家に居る時に「絵を描くのが好きなんだ」って言ってたら、俺は死ぬまでにもっと絵が描けたかもしれない。そう、思った……」
朝日が昇る。赤々としたその光に、ホムラの赤い髪がさらに光った。
正太郎はその場から歩きホムラの隣に立つ。ホムラは座っていたのを止め、ゆっくりと立ち上がった。
「正太郎。俺は昔の自分と今のお前を重ねてる。
俺は正太郎にこのまま両親と話をせずに、夢に向かわずに……後悔して欲しくないんや」
そう言ってホムラは隣に来た正太郎に笑った。
「ホムラ……」
「まだ君は間に合う。俺みたいに後悔しながら死んだらあかん。あと2日。正太郎の生きたいように生きて、そんで死んでいこう」
「……」
「大丈夫! 俺が見守っててやる」
ホムラの笑顔が優しかった。心が太陽に照らされたように暖かくなる。今朝まで冷たく冷え切っていた何かが溶けて消えていく。
正太郎はホムラに向かってコクンと頷いた。そして背負っていたギターを取り出す。
「ホムラ。僕、歌うよ。そして明日オーディション出る!」
「おう! その意気や!!」
正太郎の威勢のいい声にホムラが答える。
「そして……今日、お父さんに話をする。僕には夢があるんだって」
その言葉と共に正太郎は大きく息を吸って歌いだした。
朝日が昇り切った頃に家に帰宅し、正太郎はいつもの場所に自転車を止める。
そろそろ母親が起きてくる頃だろうと思ったが、今日はいつもと事情が違うようだ。
「お父さんの車がない」
いつも止まっているはずのセダンが今日はもう無かった。
正太郎が早朝に出た時にはあったはずだから、もう出社したということか?
そう思いながら玄関のドアを開ける。
すると丁度リビングから母親がこちらに向かって来るところだった。
「正太郎? まだ寝てるんじゃ……こんな朝早くに出かけてたの?」
母親の声に正太郎は少し息を止める。
昨日の自分が言ってしまった、母親に対しての暴言を思い出してどう話せばいいか分からなくなってしまったからだ。
少し困ったそうな顔をしている正太郎に母親は優しく微笑む。
「寒いでしょう? 早く入りなさい」
「うん……」
正太郎は母親の言葉にそう言って玄関を閉めた。
「お母さん……」
「ん?」
「今日お父さんは?」
正太郎の言葉に母親は少し驚いた顔をする。
「今日はもう会社に行ったわよ?」
「今日は遅くなるの?」
「いえ、クリスマスイヴだから家族で食事がしたいって言ってたから、夕方には帰ってくるはずよ?」
「そう……」
正太郎は靴を脱ぐと1つ大きな深呼吸をする。
「お母さん、お父さんに……夜、話があるって言っておいてくれない?」
「どうしたの?」
母親が真剣な正太郎の顔を見つめる。
「話がしたいんだ」
正太郎のその眼差しに母親は何かを察したのだろう「分かった」とだけ言った。
「何も食べてないんでしょう? 朝ご飯食べなさい」
母親はリビングの扉を開けそう言った。正太郎はその言葉に従う。
そして食卓の上にある朝食を見つけた。
「これ……」
そこには綺麗に彩られたサラダに焼き立てのパン。そして綺麗な形のオムレツだった。
「オムレツ……」
正太郎の言葉に母親は嬉しそうに笑った。
「久しぶりに作ったの。食べて」
その言葉に正太郎は自分の席に座る。
自分の大好物の母親のオムレツ。
小学校の運動会の日も、高校受験の朝食も……何か大切な事がある日はこのオムレツが出てきていた。
「朝ね、お父さんが突然食べたいって言うから、朝早くから作ったの」
母親がそう言って対面キッチンで洗い物を始める。
「お父さんね、本当は今日お休みにしようって思ってたらしくて……ここ最近仕事を詰めてたの」
「……」
「クリスマスイヴぐらい家族で過ごしたいって。けどこの間、正太郎が学校や塾に来てないって連絡があった時に、仕事抜け出して帰ってきちゃってね。それでその代わりに今日は仕事しなきゃいけないって早く出たのよ?」
「そう……なの?」
「うん。私が慌てて電話したもんだから、あの人も飛んで帰って来て……。携帯に電話してみようって言ったのに、それでますます帰って来づらい状況になったら困るって、自分の足で学校近くや公園や駅前まで探して。けど見つからないからあなたの帰りを家で待ってたの」
「……」
「お父さんね、あなたにあんな言い方しかできないけど、あなたのことを考えて無い訳じゃないの。けどねあの人は自分の会社と、会社で働いてる社員の家族、全部背負ってるから……あなたを後継者にして会社にいるみんなの将来も守っていきたいって思ってるの。だから……」
そう言って母親は洗い物をしながら正太郎に微笑む。
「お父さんをあんまり責めないであげてね」
そう言う母親の顔を見る。正太郎は小さく「うん」と答えた。
そして目の前のオムレツを口に入れる。
フワフワの触感にケチャップの酸味……。
「おいしい」その言葉しか出てくるものは無かった。
そんなクリスマス前日。